わたしたちの顔は生涯、直接見ることはできません。
鏡を通して、写真や動画を通して、レンズを通して
「あ~、わたしってこういう顔していたんだ」と
客観的に認識するのでしょう。
わたしたちの人柄も、性格も、周囲の声を聞いて
「わたしの性格は、、、」と人格を形成していきます。
だとしたら、本当の自分って何でしょう?
真実の自分とは、どの人に向けていた顔が
「ほんとうのわたし」のなのでしょうか?
どの顔も、どのような個性の私でも、
確かに「わたし」では在ります。
では、鏡を通して見ていた自分の顔や
周りからの声をすべて取り除いたとき、
わたしたちには、何が残るのでしょうか?
「わたし」という存在は周囲の影響によって
人格を形成する以外、何者なのでしょうか?
「ほんとうのわたし」とは、外見からではなく
内側から湧き出る思い、
”心から満たされる’’思いを持つことではないのか、と。
言葉だけでの先走りではなく、
真の意味での理解がここでは必要になってきます。
周囲の期待や、声に惑わされず
心から満たされることを、腹におちる感覚まで持っていく。
それには とことん自分の心に正直に向き合うことかな、と。
これはとても勇気のいることです。
無かったことにしよう、見なかったことにしよう。
流されていた方が、考えなくていいから。。
その方が楽な生き方かもしれません。
しかし、わたしたちの顔はどんどん
周囲に合わせた顔になっていくのでは。
周囲が見たいような顔に。
周囲が扱いやすい性格に。
心が満たされないままの、七変化の顔がいいのか
心が満たされた 真の姿がいいのか
どちらを選択しても良いも悪いもないけれど、
どちらの生き方を選択したいのか
すべては選択次第なのですね。