加納ミサ公式 Blog & Column 心で生きる Healing The Heart

Author Archives: Misa Kano

今年もよろしくお願いします

 

あけましておめでとうございます。

2014年、今年もよろしくお願いいたします。

 

今年も 幸せと喜びあふれる一年でありますように☆

 

 

昨年の後半はヨーロッパにてしばらく滞在していましたが

実り多き滞在となり、無事に帰国しました。

 

今回の滞在は、見守られ、導かれた滞在となりました。

各地で出逢った方々、そして自然にも感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 

昨年は、『 心に正直に生きる 』

をテーマに過ごしました。

 

このテーマ、ヨーロッパ滞在中にも

宇宙はたくさくんのレッスンを用意してくれていたものです。。

 

『 心で生きる、心で動く 』

祈りのように唱え、思いを受け入れることで

言葉を超えた次元をたくさん目撃し経験しました。

 

それは啓示のような雷でうたれるような感じではなく、

すっと自然体に、いつの間にかそうなっているような感じです。

 

木の葉がはらはらと落ちるような

風がふわっとやわらかくほほを撫でるような

そんな感じですね。

 

人は許さない事柄を手放したとき、

神というか宇宙から、景色までも一遍してしまうような恩寵が

自然にもたらせるのかな、と。

 

そこにはただただ、静かで平安な空間、

かぎりなく やさしいときがながれています。

 

奇跡は、ミラクルや魔法が起こるのでもなく

今、わたしたちが見ている世界の「訂正」である、と。

 

わたしたちの根底に流れている

穏やかな静けさのやさしいとき。

陽だまりのようなあったかな世界を、外に見ているにすぎないのですね。

 

今年は、平安な心の湖を外に反映して見続ける

 

そんな一年で在りたいなと思います。

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

加納 ミサ

 

わが家にかえる コーセリ

 

ノルウェーの言葉で、『 KOSELIG コーセリ 』という言葉があります。

「心地よい」という意味を表すようです。

寒く厳しい冬を、快適な状態の家で過ごすことを表すコーセリ。

 

ノルウェーの人々は、コーセリ(KOSELIG) の精神(心地よい状態)を

とても大切にしているとのこと。

 

家の中では、赤々と燃えるあったかい暖炉に

テーブルの上には、安らぐ ろうそくの灯火。

自然のぬくもりを感じる家具に、ほかほかのおいしい手料理。

そして家族団らん、温もりのある家でくつろぐ。

 

冬、太陽の時間が短くなる北欧ならではの、

ホッと心が和む北欧デザインもこうして 生まれたのですね。

 

 

「 おうちに、かえろう 」

家族がよく口にする言葉。

 

旅に出て、いろんなすばらしい世界を体験しても

やはり、わが家は一番だなと(^_^)

 

寒い冬空の下から帰ると、明かりがついたわが家に

「おかえり」とあったかな温もり、ほっと心が和む瞬間でもあり

帰ってきた ・・・ と安心する瞬間でもあります(^^)

 

 

追記

わたしのお気に入りの言葉のひとつに

 

『 とりあえず人間は 日に干されると大丈夫 』 by  毎日かあさん

 

があります。この言葉に何度も救われてます(微笑)

毎日かあさんの漫画は読んだことがありませんが、

この言葉の引用を目にしたとき、

ほんと、そうだよね。。と思わず笑ってしまいました。

 

お日様ポカポカで身も心もほかほか。

お布団も洗濯物もほかほか。

大地にゴロンと横になって、温められた土の香りとぬくもりを

直に感じることもできる。

 

もっと言えば、日に当たることは紫外線の影響もありますが、

太陽の光からビタミンDをいただき、自律神経の安定にもなるようです。

ですから、とっても理にかなっているのですね。

 

元気チャージは、お日様と自然。

人間は、自然によって生かされ生きている。

だからこそ、自然と共存できる世界を見続けたいと。

わたしたちの子孫が、これからも美しい地球と自然、

あったかな太陽と、星空を眺める平和な日が

いつまでもいつまでも 続くことを願ってやみません。

 

究極な目的

 

人生の目標やゴールが見つからない。

 

自己啓発系などで、「目標を明確にしましょう。」

など言われた日には、目標が無い人には余計苦しく、辛く

このままではダメだ!見つけなければ。と

追い込んでしまうかもしれません。

 

わたしもそんな一人でした。

周りがどんどん目標を明確にし実装しているのに

あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。。。

私の目標はこれだ!と思いきや数ヶ月後にはあれっ、違うと。。

 

そんな自分を叱咤しながら追い込み、

まるで軍隊か スポ根なみにとことん自分を追い詰めてしまうタイプ。

 

そういう時にかぎって、青い鳥を探せではないですが、

これだというのはなかなか見つからないというか、気づかないもの。

 

隣の芝生は青く感じるし、なんで自分は。。と余計追い込んだり

見なかったことにしようと、何かに逃げたり。。

 

もちろん目標を明確にし、それにそって生きるタイプの方もいます。

でも万人みな 同じタイプではありません。

 

共通することと言えば、今していることが

「とことん興味があるかどうか」 ではないでしょうか。

 

それがたとえ、生産性を産むものでなくても、

家事や、育児、旅行や、スポーツでも、

芸術に、読書、友人と逢うことや、祈り、何でも。

 

それらがすべて、何かから逃げることへの代用ではなく

「心からやりたいこと」 であったら

「今は」 それにとことん集中すること。

 

ポジティブと言われている事ばかり挙げましたが

怒りや、悲しみなどに浸っていたい。眠っていたい。

家にこもっていたいということも含め、すべて

心からやりたいことであったら、極めていくことが在りだと思います。

 

なぜそれらが、悪いことと決めつけるのか、

それらもすべてが愛の変容だとすれば、

受け入れてあげる素直さの方が、よっぽど健全な心なのでは、と。

 

そこから扉は開き、真の目的につながる糸が無限に伸びていくのですね。

まるで美しい蜘蛛の巣のように、人生の設計図が作成されるのかな、と。

 

絵も、歌も表現においてすべてだと思いますが、

うまくやろうと思う気持ちよりも、

無心になって取り組むことで、いつの間に作品が仕上がった。

どこにつながるかは分からないけれど、

何か大きな存在に素直にゆだねて描いてみたら、

ここにつながったということがおきます。

 

もちろん、いろんな感情を爆発させながらの作品創りもあります。

その感情や作品にこめたエネルギーを人々は

観て、聴いて、心を揺さぶられるのではないでしょうか。

 

表面上でうまくやろうではなく、

その奥の芯が大切。

 

周りからどう見られるかなどの評価より

何よりも、何よりも、自らが

それ自体を心から愛するエネルギーが大切なのですね。

 

人が生まれ持った魂の目的が在るとすれば

それは壮大で言葉には当てはまらないようなことかもしれません。

もしかすると、肉体を離れるときに、わたしの目的はそうだったのか!と

気づくことがあるかもしれません。

 

そして、わたしたちの生きる究極な目的は

わが家へ還ることではないでしょうか。

 

心安らぐ、平安なわが家。

「おかえり」

この言葉を待っているのかもしれませんね。

 

真実の顔とは

わたしたちの顔は生涯、直接見ることはできません。

鏡を通して、写真や動画を通して、レンズを通して

「あ~、わたしってこういう顔していたんだ」と

客観的に認識するのでしょう。

 

わたしたちの人柄も、性格も、周囲の声を聞いて

「わたしの性格は、、、」と人格を形成していきます。

 

だとしたら、本当の自分って何でしょう?

真実の自分とは、どの人に向けていた顔が

「ほんとうのわたし」のなのでしょうか?

 

どの顔も、どのような個性の私でも、

確かに「わたし」では在ります。

 

では、鏡を通して見ていた自分の顔や

周りからの声をすべて取り除いたとき、

わたしたちには、何が残るのでしょうか?

 

「わたし」という存在は周囲の影響によって

人格を形成する以外、何者なのでしょうか?

 

「ほんとうのわたし」とは、外見からではなく

内側から湧き出る思い、

”心から満たされる’’思いを持つことではないのか、と。

 

言葉だけでの先走りではなく、

真の意味での理解がここでは必要になってきます。

 

周囲の期待や、声に惑わされず

心から満たされることを、腹におちる感覚まで持っていく。

 

それには とことん自分の心に正直に向き合うことかな、と。

これはとても勇気のいることです。

 

無かったことにしよう、見なかったことにしよう。

流されていた方が、考えなくていいから。。

その方が楽な生き方かもしれません。

 

しかし、わたしたちの顔はどんどん

周囲に合わせた顔になっていくのでは。

周囲が見たいような顔に。

周囲が扱いやすい性格に。

 

心が満たされないままの、七変化の顔がいいのか

心が満たされた 真の姿がいいのか

 

どちらを選択しても良いも悪いもないけれど、

どちらの生き方を選択したいのか

すべては選択次第なのですね。

 

振り子の幅

 

「振り子の幅を人生にたとえるとね、、、」

友人と美の談義をしていた時のことです。

 

振り子が止まっている時をゼロとする。

右へ左へと、同じ幅だけ左右に動く。

当たり前のことです、当たり前のことです。(^_^)

 

これを人生に例えてみます。

この揺れ幅は、一人一人オリジナルを持っています。

+(プラス)に動いた同じ幅だけ、-(マイナス)の幅も動く。

 

人生の深さを生きている人は、その幅だけプラスに動く幅を持っている。

大きく動くことはなくても、同じ幅だけの動きを左右に持っている。

 

これに関して、良い悪いはないと。

たとえば、わたしは深く動くことはない、と。うん、それでいいのです。

それがその人が選択した、最大の幅なのだから。

 

そして今、絶望を感じていたとしても、

その幅の分だけ、大きな大きな喜びを感じる振れ幅があるのだということ。

これも、その人が選択した最大の幅なのだから。

 

これだけの幅だから、とか

こんなにも大きな揺れ幅がある、とか

そのような比較は関係なく、ただ、わたしたちが選択した幅だから。

 

それを受け入れたとき、センター(ゼロ)に

振り子が止まるのかな、と思います。

 

どのような振れ幅があったとしても、

目指しているところはただ一つ、センターなのかもしれませんね。